豊原国周論考                    Kunichika Discussion

  豊原国周の作品は、美術品としての価値が今日ではほとんど認められていないが、江戸末期には絶大な人気を誇った浮世絵役者絵師であった。その人気の本質を解き明かすことこそが、本研究の目的である。浮世絵師・豊原国周については、菅原真弓が多くの論文を発表しており、それらをまとめた近著『明治浮世絵師列伝 第一章 豊原国周』(中央公論美術出版、2023年3月刊)も存在するが、そこでも曖昧にされてきた幾つかの事項について、あらためて確認し、さらに新たな切り口をもって国周の画業を評価し、その特徴を明らかにするものである。

 国周のデビュー年である1852年から1870年までの時期を初期と位置づけ、その間に制作された作品を中心に、世界中の美術館や大学等に所蔵されている一万点以上の作品を調査した。その成果として、画名の変遷(豊原の名を用い始めたのは1870年以降であるため、厳密には一鶯齋国周と呼ぶべき時期も含まれるが、ここでは広く知られる「豊原国周」として通す)、捺印の変遷(彼独自の五菱年玉印を使用した事実)といった基本的事項を押さえた上で、国周作品の特質についても考察を加えている。

 国周の作品は、単に彼以前の浮世絵師たちの作風と比較するだけではその本質が捉えきれない。彼は、江戸末から明治初頭という大転換期にあって、歌舞伎という物語を庶民に伝える役割を果たす、いわば現代の映像作家のような存在であったと考えられる。その絵には、庶民化されたやつし絵、誇張と簡略による筆致の漫画絵、大顔絵によって達成された感情表現、三枚続きの画面に一人の役者を描いてその感情を増幅させる構図の工夫、さらにはショットパタンによる視覚的効果を活かしたストーリーテリングの技法など、多様な工夫が見られる。こうした視点から、国周の作品の真価をあらためて読み解くことを試みた。

 国周や、彼の師である豊国の作品が美術品としての評価に乏しいという現状は理解できる。しかし、それらを江戸時代のサブカルチャーの文脈において捉え直すならば、それぞれの作品はにわかに生き生きと立ち上がってくる。そこに描かれた役者たちが、苦悩し、怒り、あるいは何かを訴えかけるような姿が浮かび上がり、庶民に届く物語としての力を持っていたことが見えてくる。国周の描いた浮世絵は、現代における映画のスチール写真と同様の役割を果たしていたのではないかと考えた。

 以上のような視点のもとに、第一章では検閲印を確認することで初期作品を選び出し、第二章では具体的な作品を挙げながら国周の絵を分析し、第三章ではその考察をまとめる形で、彼の作品の特徴を総合的に整理したものである。

農学博士 船越安信

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